本当はこの街があまり好きではない。
この街から、震災のことから逃げたい。離れたい。
もしもそう言えば、あの人はどんな顔をするだろうか。
悲しませてしまうだろうか。ガッカリさせてしまうだろうか。
「ワガママだ」「亡くなった人のことを考えろ」と言われるだろうか。
わかっている。わかってはいるけど。もうどうしようもできなくて。
少しだけ、話を聞いてほしい。
これは、とある私の話。私の問題。
石巻という街に生まれて、育って、飛び出して、再び戻ってきた。
学生時代、よく同級生が口にしていた「地元最高」に嫌悪感を抱いていた。
「地元最高」って何?イオンしか遊ぶところないじゃん。他にお洒落な場所なんてある?
というかその訛りダサくない?荒っぽいし
何言ってるかわからないんだけど。
電車が1時間に1本で、仙台まで1時間超。
車社会。都市部の流行が到達するまでの遅さよ。
尚且つ世間が狭い。知り合いの知り合いが同級生だとかはすぐに特定できるし、誰々が付き合っている話なんか瞬く間に広がっていく。
派手な格好をすればセンスの有無を問う前に浮いてしまう。
近所の人からの「あの子大丈夫?」なんて囁きも、聞こえないふりをするようにそっとイヤホンで耳を塞いだ。
中学までは自分のいる世界がすべてだと思っていた。逃げ道も寄り道もあったものじゃない。
それが高校に上がる頃にはちょうどSNSの黎明期で、自分の目の前に広がる世界とは別の世界があることを知り始めた。
インターネットが無ければきっと窒息していただろう。
思春期特有のスクールカーストも相まって、私は一刻でも早くこの街を出たかった。
そんな折、高齢化と過疎化が進むこの街にトドメを刺すように、あの震災と津波が襲った。
沢山の物が壊れ、泥まみれになり、海の底に沈んだ。
この街に元々住んでいて、家族や知り合いが誰一人無事だった人なんて、ほとんどいないんじゃないか。
その光景の中に立っても尚、私は高校を卒業して進学の為に上京した。
やっぱり、どうしてもこの街を出たかった。他の景色を見てみたかった。
短くも長くもない年月が流れた頃、体調を崩していた私は卒業を迎えるのと同時に被災した実家が新たに出来上がるということで、
再び石巻に戻ってきた。
東京に住んでいる時も短い時間ながら帰省していたけれど、久々に戻ってきたこの街は知っているようで知らない街になっていた。
新しい道。新しい街並み。新しい顔。
震災後そのままになっている風景もあるものの、街は変わらないようで変わっていたのだ。
よくよく話を聞くと、ボランティアがきっかけでこの街を気に入り、そのままここに住むようになったという。
「何もこんな辺鄙なところに」と思ったけれど、私が好きなあの街だって田舎だし、
あの頃の自分と同じように思っている人がいるんじゃないか、と考えたら少し腑に落ちた。
石巻に戻ってきて、そこで仕事をし始めてしばらく経つ。
けれど長い時間と場所を経ても、やっぱりこの街のことはあんまり好きになれなかった。
外からやって来た人にはある程度までは優しいかもしれないが、元からいる人に対しては時として息が詰まりそうな閉塞感を何食わぬ顔で
押し当ててくる。というのは他の地方都市や田舎でもよく聞く話かもしれない。「郷に入っては~」とはよく言ったものだけど、
にしてはその価値観や感覚の古さに苦しめられることもしばしばである。まるでそこだけ時代の流れが止まっているかのよう。
こんな中でも、元からいた人や外からやって来た人でもこの街には好きな人がいる。
だけどその人が好きであって、石巻に住んでいるから好き、という訳ではない。その人のことは多分どこに住んでいても好きだと思う。
この街から離れたいと思う理由はそれだけじゃない。
震災に向き合うこと、震災と共に暮らしていくことに疲れ果ててしまったのである。
震災直後、自分の中に生まれた感情を沢山言葉にした。
それは止め処なく溢れてきて、今考えると感情や思考を誰かに伝える為に言葉にしようと必死でまとめることで、自然と自分を
保とうとしていたのかもしれない。言葉にして誰かに伝えないとどうにかなってしまいそうだった。
気が狂いそうとか自分が壊れてしまいそうだとか、とにかくやり場のない思いを誰かに聞いてほしかった。
生まれてからずっと住んでいた街がある日を境に突然「被災地」と呼ばれるようになり、多くの人が「被災者」と呼ばれるようになった。
津波が押し寄せるあの映像と共に重く暗いイメージが浸透してしまった。
もちろん憂いたり悲しんだり、嘆く時もある。
けれど、ずっとそうじゃない。結果として大なり小なり被害を受けたとはいえ、住んでいる人間は「可哀想」だと思われる為に生活していない。メディアのお涙頂戴要員じゃない。
切羽詰まった自分の気持ちを誰かに聞いてもらう為に書いていた文章は、いつしか「可哀想なんかじゃない」ということを
伝える為の文章にシフトチェンジしていた。
有難いことに、震災について書いた文章は沢山の人に読んでもらえた。それがきっかけで実際に街に足を運んでくれた人もいた。
何者でもない人間が書いた文章だけど、少しでも書く意味があったのかなぁと今では思う。
長い時間をかけて継続的に書き続けた文章は、書くことによりそれと同じくらいの時間をかけて自分の中の震災に対する思いを
整理させてくれた。曖昧で散らばっていた気持ちの輪郭をはっきりさせて、今にも転びそうだったり不安定だった当時に比べて、
それらを抱えてもとりあえず大丈夫と言えるほど自分の足でようやくちゃんと立てるようになった。
しかしそれはすなわち、そこにたどり着くまでに絶え間無く震災と向き合い続けたということでもあった。
生活していると目につく津波の爪痕、到達した津波の高さの看板、曲がったままのガードレール。
あちこちに点在する「震災」「復興」の文字。
その風景が住んでいる人にとっては当たり前の日常になっているけれど、側から見ればある意味非日常かもしれない。
しかしここに住んでいる以上、震災とその爪痕は生活の一部で、それと共に生きていくことになる。
仕方ないとはいえその非日常を日常として生活していかなければならなかった。
前よりはましになったけれど、今でも小さな揺れや重低音に身構えて、心臓は気持ち悪い鼓動を鳴らす。
サイレンや緊急地震速報の音はもってのほか。地震の夢を見て目覚めては、その日は一日中気持ちが重い。
せめて震災前の姿であってほしかった実家が、夢の中でさえ津波の泥にまみれ跡形もない姿だった時はさすがに目が覚めてから静かに泣いた。
私の人生に、震災が深く刻み込まれてしまっていた。
震災を通して学んだことも沢山あれば、震災がきっかけで出会った人も沢山いる。
その人達はほとんど震災前の私のことを知らない。
知らなくたって仲良くなれたのだから特に問題はないけれど、震災の要素のない私を知ってほしいというのはワガママだろうか。
震災を乗り越えたからこそ今があるのはわかっている。痛いほどわかっている。
起こってしまった以上、過去に遡ってどうすることもできない。
戻れないからこそ、被災者でもなんでもない普通の人になりたいと願ってしまう。
普通の生活をしたいと願っても、街に溢れる爪痕を目にする度に苦しさを思い出してしまう。
一時たりとも忘れることを、この街は許してくれない。
やっと気持ちの整理がついたのに、それでもまだ向き合わなければならないなんて。
あとどれくらい向き合えば楽になれるのだろう。
震災を、被災地を忘れないでと、どこからともなく声がする。
忘れてはいけないとわかっている。後世に伝えるべきともわかっている。
けれども、四六時中向き合い続けるのには疲れてしまった。
忘れたい。離れたい。だけど
震災を忘れることは、亡くなってしまったあの子を忘れるということですか。
震災をなかったことにすることは、大好きなあの人達との出会いをなかったことにするということですか。
私には何が正しくて、それが誰の為の正しさなのかわかりません。
それでも確かなのは、どこで生きようと私の過去は私のもので、それは揺るがない事実であること。
なくすことができないこと。無くなった後に新たに生まれたものを大切にしていくのが私にできる唯一のこと。
震災後、外部の人が石巻のことについてやいのやいの言うことに対して、なんとなくモヤモヤしたし、なんだか嫌だった。
理解したり、納得する部分もある。
でも、石巻の地に立っていない顔の見えない赤の他人に液晶の画面越しで言われるのは何か違う気がした。何も知らないくせに。
「可哀想」を含めそれはきっと、自分の中に知らず知らずのうちに生まれていた地元への愛着なのかもしれないと気づいた。
こんな自分でも少なからずそう思える気持ちがあることに安堵した。
私が街を愛せない代わりに、例えばボランティアだった人のようにこの街を愛してくれている人がいる。
私の代わりにその人が私以上に愛してくれればいいと思う。どうか愛してあげてほしい。
今はまだ好きになれないだけで、時が経てば、さらに大人になれば変わるかもしれない。
ちゃんと客観的に見れるようになれるまで、少しでも好きになれるまで、どうか時間を下さい。
その時が来るまで。自然と「愛したい」と思えるようになるまで。
『1/143,701』 Ammy