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それまではどこにでもいるような、一生懸命部活に打ち込む音楽好きな田舎の高校生だった。

 

朝、祖母と喧嘩して「いってきます」を言わずにそのまま家を出た。

大好きな部活もその日は雰囲気が最悪で、嘘をついて逃げるように休んでしまった。

親が入院する病院へ行く前に、マックを買って食べた。

家に帰ったら数日前にTSUTAYAで借りてきた大好きなバンドのアルバムをウォークマンに入れようと決めていた。

そして、その瞬間を迎えた。

 

腰掛けていたベッドが大嵐の船のように揺れ動き、病室のスライドドアが大きな音を立てて開閉を繰り返す。知っていますか?人間、死にかけると走馬灯が見えるのはどうやら本当のことみたいです。今までの思い出がフラッシュバックして、「あぁ、これで本当に死ぬのだな」と生きることを一度諦めた。けれど、走馬灯の最後、未だにライブに行ったことのない好きなバンドや大切な人の姿が映し出され、「まだこの人達に会ったことがない、会いたい、生きたい」と思った瞬間、降下するだけだった意識が、風向きが、はっきりと変わった気がした。大きな揺れが収まった後も小さく揺れ続ける中、買ったばかりのiPhoneの天気予報アプリに映し出されたのは、日本地図の沿岸を走る紫の線と大津波警報の文字。私の安否を案じる連絡をよそに、その画面を見つめることしかできなかった。いつ割れるかもわからない窓の外を見る余裕もなく、建物の下を津波が押し寄せていることさえも知らずに、曇り空からしんしんと降る牡丹雪を見ながら「世界が終わっていくのはこういう感じなのかな」とぼんやり思った。

 

幸いにも病院に駆け込んだ家族と祖母家族は無事だったものの、まさかここから1週間、容易に外に出られなくなることになるとは夢にも思わなかった。満員のため、避難所となっていた母校には入所を断られ、無事だった隣町の親戚の家に移ったのは10日ほど経った頃のこと。それから仮設住宅へ入居するまでの約半年間をそこで過ごすことになり、最終的に新しい家へ引っ越すまで5年の月日が流れた。

 

津波の水はなかなか引かず、私の住んでいた家の地域には半月ほど立ち入ることができなかった。忘れもしない17歳の誕生日。靴を泥まみれにしながら父親と親友と一緒にようやく帰宅した自宅は、案の定跡形も無くなっていた。玄関の場所も、茶の間の場所も、どこに何があったのかわからない有様。瓦礫はヘドロに飲み込まれ、家のかけらすら存在しない。後で奇跡的に助かった近所の人から話を聞くと、海から200〜300mしか離れていなかった我が家は一番最初に流されたという。跡形も無くなった、ヘドロまみれのその場所に立ち尽くすことしかできなかった。避難して誰も居なくなった家の最期を思うと、心が引きちぎれそうになる。側に父親と親友がいなければ、きっと私は泣き崩れていただろう。雲一つないその日の深い青空を、今でも忘れることができない。

 

それからというものの微細な揺れでも過剰に反応してしまい、半年ほどはろくに学校へ登校することができず、卒業するまでスクールカウンセラーにお世話になった。常に揺れている感じがして、いつ再びあの揺れが来るか恐怖に怯えていた。それは高校卒業後に上京してもなお続き、電車のつり革の揺れ方で震災発生時の光景がフラッシュバックするほどで、結果的にはそれが遠因でついには心身を壊してしまったのだった。病院での治療と時の流れという薬のおかげで幾分緩和されたが、大きな地震が起きる度に体が強ばり息ができなくなってしまう。この傷とは、おそらく死ぬまで一生付き合っていかねばならないのだと覚悟している。

皆が皆被災していて、辛い気持ちを直に打ち明けられる状況ではなかった。ひとりひとり、被災した状況も程度も異なる。失ったものが自宅程度だった自分はまだ良い方で、目には見えない、聞こえない誰かの辛さを察しては飲み込むしかなかった。ジレンマを抱えつつも自分にできることはないかと考えた結果、SNSやブログなどを通して被災地の状況を発信することにした。厳しい環境ながらもできるだけ深刻になりすぎないよう、時にはユーモアを交えつつ発信することに努めた。数年後にはブログではなくちゃんとした媒体で震災のことを綴る機会を頂き、有難いことに書いた文章は沢山の人に読んでもらえた。たったいち高校生が書き始めた文章がこんなにも読んでもらえるなんて、と思いながらも今更になってようやく気づく。あの頃、私は“立派な被災者”になろうとしていた。

 

 

当時、「被災地で頑張る高校生」とメディアで紹介されることは時々あった。事実、被災地のために頑張ったこともあったから100%嘘ではない。しかし、私が綴ってきた文章や語ってきた言葉はあくまでも私自身の気持ちであり、想いでもある。「涙が出る」や「頑張ってる」とか、様々なそれらの反響を受け取る度に無意識に「もっと発信しなければならない」「いち被災者としての声をできる限り伝えよう」と、責任感が生まれてしまった。その内なる声は次第に大きくなり、時として震災について話そうとする他の小さな声を意図せずかき消してしまったこともあった。こんな状況、誰も望んでいない。誰も幸せにならない。それに気づいた瞬間から、震災について話すことはもうやめにしようと思った。私だけの話にしようとした。

 

それでもなおこうやって綴っているのは、過去の記憶が陽の光を浴びず朽ち果てていく感覚があったこと、そして、その記憶をようやく打ち明けられる時期が来たのだと感じたことである。そう感じさせてくれたのは、今まで出会ってきた人達、大切な友達の存在があったからだ。

 

 

土地の再開発、埋め立て工事によって地形や道が見間違えるほど変わった。昔の実家がどこにあったのかわからないことに気づいた瞬間、もうあの頃の記憶には帰れなくなってしまった。震災により形を失った大切な物が少しずつ影を薄め、消えていく。間違いなく自分の人生の一部であるのに、どこかに存在した証拠を残さない限り、それらはすべてなかったものとされてしまうことに耐えられなかった。だから忘れないようにこうしてここに刻んでいる。

 

震災直後から様々な人と出会ってきた。一度限りだったりすぐに離れてしまった人もいれば、今でも繋がっている人もいる。その人達は皆、震災前の私を知らない。確かなのはいずれも“被災者と非被災者”という関係から始まったこと。そんな関係性も年月とともに少しずつ変わっていき、他愛のない話ができるようになった。しかし、「出会いのきっかけが震災」という事実が妙な距離感を生み出してしまう。震災は無いに越したことはない。けれど、震災がなければこうやって交わることもなかった縁でもある。その矛盾に長い間悩み、苦しみ続けていた。その矛盾を解消してくれたのは“友達”だった。私のことを「石巻の友達」と言って紹介してくれた人。「人生を変えたのは震災であって、自分達と出会ったのは巡り合わせ」と言ってくれた人。どちらもその言葉を聞いた時、涙を堪えるのに必死になった。“被災者と非被災者”という関係性は消え、そこにあったのは“友達”という距離感であった。実際に距離を作っていたのは自分の方だったのかもしれない。手を差し伸べてくれた友達に私ができることはなんだろうかと、それから何度も何度も考えた。答えは単純だった。「あの日から新たに生まれた縁を大切にして生きていくこと」だった。

 

あれから生き返った私は、震災前の人生がまるで前世の話のような感覚がしている。なかったはずの未来を必死に生きてきたら、10年も経ってしまった。「もう」でも、「まだ」でも、そのどちらでもない。明らかなのは、どうやら遠くまで来てしまったらしい。もしも、あの朝ちゃんと「いってきます」を言えていたら。部活に参加して学校にそのまま残っていたら。そもそも親が入院していなかったら。たくさんの「もしも」が10年という時の渦の中を今もぐるぐると回り続け、その上にあの日からの生活が積み重なっている。

 

傷を抱えながらも必死に生きていたことで、時には人に心配や迷惑をかけてしまったことが何度もあった。思い出す度に申し訳ない気持ちに苛まれる。それでも皆、優しく接してくれた。だからこそ、必死ながらも今日までなんとか生きることができた。今までずっと、あの日何があったのか、あれからどう生きてきたのかを友達や大切な人には話せずにいた。こんなに重い10年を打ち明けたとして、その人を困らせてしまうんじゃないかと不安になり、打ち明けずに今日まで来てしまった。けれど許されるのならば、どんな色であれ忘れることのできない思い出だからこそ伝えたいと強く思うようになった。それは大切だからこそ、友達だからこそ伝えたかった。この10年とは、震災の記憶とそれからの思い出を打ち明けるまでに必要な時間であった。

 

私は被災者だった。

あらゆるものを失った。隣の家の人も、後輩も亡くなってしまった。「家に帰りたい」と何度も泣き叫んだ。収まる気配のない余震に耐えきれず「永遠に恐怖に怯えるくらいならこのまま死んでしまった方が楽」と数え切れないほど思った。生きることをどれだけ諦めかけたか。どれほどの涙を流し、嗚咽して声を枯らしたか。きれいなものも汚いものも目の当たりにして、その度に天を仰いだ。思い出はヘドロになって海の底へ沈んだか、それとも瓦礫となって燃やされてしまったか。「さよなら」も「ありがとう」も言えず、唐突に引き裂かれてしまったものは数え切れない。あの公園も、あの駄菓子屋さんも、今ではもう小さな思い出の中で、いつか完全に忘れてしまうかもしれない。せめて忘れてしまう前に、ここにこうやって刻んでおこう。それらは皆、確かに私が生きていたひとかけらで、紛れもなくそこに存在していた証拠だ。

あれから3654日を生きた。どんなに泥臭くとも、かっこ悪くとも、やさぐれようとも、とにかく必死に生きた。疲れ果てて立ち上がれなくなっても、倒れながらも、生きて今日まで辿り着いた。節目なんてない。たとえ区切りがあったとしても、それを決められるのは自分自身だ。あの瞬間生きることを一度諦めたとはいえ、2011年3月11日以前から地続きの日常を今も生きている。そして、2021年3月11日を過ぎても日常は続く。つつがなく日常を過ごしていくことが、あの日生き残った自分達の役目に違いない。生きることは、歩みであり、祈りであり、希望だ。

祈りながら、私はこれからも生きていく。

『​3654』 Ammy 2021.3.11

『1/143,701』 at REBORN ART FESTIVAL 2019

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